1993年(平成5年) PD発症のきっかけとなる初めての発作++
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ある手術の為、私は入院していた。
その手術前の検査中、突然発作は起きた。
動悸・吐き気・そして得体の知れない不安感。
その時は何がなんだかわからずただただパニックだった。
しばらく発作は治まらなかったが、それでもなんとか手術を終え無事退院。
それがパニック発作だったとは、その時は知る由もなかった。


1997/1(平成9年) それまでの4年間++
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入院中の発作以来の約4年間は時々同じような現象はあった。
あの言葉には言い表せない焦燥感は今でも忘れない。
が、それがまさか病気とも思ってなかったので発作が起きても我慢し、自分を騙し騙ししながら普通の 生活を送っていた。


1997/5(平成9年) またしても?!++
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会社の行事の花見へ行った時の事。
夜になり2次会3次会へと進み、あるバーでまた同じ発作が起こった。 一体あれは何だったんだろう…


1997/8(平成9年) 体調の異変++
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丁度この頃から体の疲れに気づき始めた。
たまに起きてた発作が頻繁に起こるようになってきたし、両目にはものもらい、食欲の低下、体重の減少。
体の全ての抵抗力が無くなったようだった。
1ヶ月後に旅行が控えているのに、なんだか不安。


1997/9(平成9年)〜/11(平成9年) 大発作から行動療法に至るまで++
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2泊3日で関西へ旅行に行った。
現地は蒸し暑く、9月なのに気温が30度以上。
不安を抱きながら来たが、やっぱり食欲はない。
なんかおかしい…。早く帰りたい。
旅行最終日、ホテルをチェックアウトした数時間後。
なんとなく潜在的に「体調が悪くなっても、逃げ場がない」そう思っていたのだろうか、 ホテルを出たとたんに私の不安は増した。
でももう後戻りはできない。

お昼にお腹がすいたのでそば屋さんに入った。
それまではお腹がすいていたはずなのに、目の前にそばを出されたとたん、 どうしてか一口も手をつけることが出来なかった。

その直後発作は起きた。
いてもたってもいられず、一口も箸をつけずに逃げるように店を出た。
店を出ても、私には落ち着ける場所がない!このままどうなっちゃうんだろう…を頭の中で繰り返しながら、 京都駅に座り込んで一歩も歩けなくなってしまった。
そのまま約2時間が過ぎ、発作は治まらない。
でも、もうホームへ向かわないと、飛行機に間に合わない。
私は思い腰を上げて、やっとの思いでJR→飛行機→JR→タクシーと乗り継ぎ、なんとか我が家に辿り着いた。

旅行明け、私は旅行最終日の発作の余韻をずっとひきずっていて、帰ってきた次の日に有給をとっていたことが すごく一時的に心を軽くしてくれた。
1日休めば調子も良くなるだろう。
会社のみんなも旅行へ行っていることは知ってるし、明後日は休めない。
今のうちに休養をとっておかなければ…。

休みが明けた日の朝のこと。
やはり体調は戻らない。
でも有給をとっていたし旅行もバレてるし、絶対に休めない!そう思いながら ふらふらになりながら出社。
しかし席に座っていることが出来ない。

トイレへ掛け込み、個室でしゃがみこむこと30分。
もうダメ…やっぱり早退しよう。
勤務開始30分で私は早退した。
帰りのタクシーの中の約20分間は発作が治まらず、その短い時間が1時間ぐらいの様に感じた。
早く家に着いて!そう願いながら手をグッと握りしめていた。手のひらには爪跡が沢山出来ていた。

この会社早退の日を境に私はもう2度と仕事をする為に会社へ行けることはなかった。
さすがに「これは普通じゃない」そう思い、やっと病院へ行く事を決意する。
でも何か神経の病である事はうすうす感づいてはいた。
これからの自分はどうなっちゃうんだろう。闇の中を必死に光を求めてさまよい歩いている気持ちだった。

当時私の姉もかつてPDを経験していたこともあり、私はもしや自分も…とピンと来るものがあった。
でも精神科や神経科に行くのにはすごく抵抗があり、電話帳を開きながら無難な所で「神経内科」を選んでしまった。
それがそもそもの間違いだったのか、単に先生との相性が悪かったのかは不明だが、その病院を経験して以来 「病院恐怖症」に陥った。
でもとりあえず、頼んでやっと出してもらえた抗不安剤と抗うつ剤の服用を開始してみる。

以来、すっかり気持ちは鬱状態。
それまで当たり前に出来ていた事が一瞬にして出来なくなった。どんどんネガティブな思考に…
そんな自分に腹が立ち、自分の将来に不安を抱き、さらに自己嫌悪に陥っていった。
当時一人暮らしをしていた私は、玄関にはチェーン、時々電話線を抜いたり…と誰と会うのも話すのも 怖くなってしまった。
体重は1ヶ月で6キロ減。
もちろん外出どころではなく玄関のドアを開けることさえもできない。
ただただ1日中部屋の中で発作に怯える毎日だった。

しかし、いつまでも部屋に閉じこもってばかりいても自分の体は回復していかない…
そんな思いから日々のリハビリは始まった。

まずは玄関のドアを開ける事から。
次はマンションの階段を4Fから3Fまで降りてみる。
次の日は2Fまで。
そのうち序々に、近所のコンビニや銀行ぐらいまでなら行けるぐらいになった。
その時は本当に一つ一つが嬉しかった。
そんな風に一進一退を繰り返しながら、徐々に外出を試みる。

あれは忘れもしない、岡田監督率いるサッカー日本代表チームが1998年W杯の最終予選で、岡野選手が フランス行きの切符をとる最後のゴールを決めて大喜びしていた直後の出来事だった。
私の歯の一番奥に詰められていた銀の詰め物がとれたのだ。
筋金入りの歯医者嫌いの私はずっと震えが止まらなかった。
そして、眠れずに一夜が明けた。

ただでさえ歯医者が嫌いなのに、ロクに外出も出来ない私にどうしろというのだ。
何か悪い夢でも見ているような気分だった。
さんざん悩んだ挙げ句、一人の歯科医師の知り合いがいた事を思い出した。
あの人に助けを求めよう。
電話し、家までわざわざ来てもらった。
早速診てもらうとやはり中は虫歯になっていた。
「虫歯を削ってからじゃないとこのまま詰めるのはヤバイよ」
そう言われてさらに震える日々が続いた。

数日後、気が重いながらも近所の歯科医院へ行ってみた。
やはり治療は受けられない。
なんとか頼み込んでもう一度接着剤持参で知り合いの歯科医師に来てもらった。
ただ詰め物を入れてもらうだけなのに、それさえも抵抗を感じるようになっていた。
結局、やり方を習って自分で詰めた。

昔から親との折り合いが悪い事が原因で一人暮らしを初めていた私は、この先どう生活していったら良いの だろうと毎日悩んでいた。
このままここで生活を続けていても貯金もない、ましてや収入もない状態で、 数ヶ月後にはお金も底をついてしまうだろう。
そのプレッシャーに押し潰されそうでいつも体調が悪かった。
それを全部把握していた姉は「ウチに来るか?」と言ってくれたが、姉には姉の家庭があり家族がある。
いつ仕事復帰できるかわからない私がいつまでもやっかいになるわけにはいかない。
迷惑をかける事が目に見えていた。
結局悩んだ末、再び実家へ戻る事を決意した。

毎日少しずつ荷造りをしていて、それが完成した頃、引っ越しの日はやってきた。
荷物が運び出されていくにつれて発作が起こるのではないかと不安だったが、いざその時が来ると根性も すわっていたのか、意外となんとかるもんだ。
このマンションには2年間お世話になった。沢山の思い出がぎっしりと刻まれている。
新しい環境になじめる事が出来るだろうかという不安を胸に、マンションを後にした。